チャイルドマインダーの子ども観

2000年頃の子どもの観察記録 他

088 子どもに『常識』は通じない

年少の長男と散歩の途中「工事中キケン」の看板にライオンの顔と×マークが描かれたものがあった。

それを見た長男は「ココ、ライオンがいるの?」

大人の常識とその場の状況からしてとてもいるとは思えないんだけど「いない」とは言い切れなくて「さ〜どうかな〜」と答えてしまった。

 

僕が小学生の頃、学校の運動会のポスターを描いた事があった。ウルトラ兄弟が組み体操をしている様子を描いたんだけど、それを見た幼児が「ウルトラマンがくるの」と聞いていたという話を人伝に聞いた事があった。

 

後者の方は着ぐるみが来るという誤解を招いたのかもしれないが、前者は街中。動物園でもサーカス小屋の近くでもない。

ライオンを飼っている可能性は極めて低い。

子ども(幼児)が対象になる時は気をつけねばと思ったという話。

 

 

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機関車

 

087 算数的には間違いだけど

五年生の算数、確立の授業のときのこと。バスケットボールのシュートとゴールの数を例にして展開していた。

8回シュートして6回ゴールした人と10回シュートして7回ゴールした人を比べた場合、どちらが『優秀か』を求める方法を考えましょう…という問題。

 

ひとりの生徒がグラフを使って比べることを提案した。

Y軸にシュート数、X軸にゴール数。右にいくほど『優秀』という事らしい。

そこで先生。「じゃぁ、1回シュートして1回入った人より、5回シュートして5回入った人の方が『優秀』なんですか?」

 

確立の勉強だから答えは「同じ」。

僕も「先生はここでこの生徒に『ハッ』と気づかせたいんだな」と思い、生徒の反応を待っていた。ところが、生徒達からは(提案した生徒以外の生徒も含め)

 「そうだよ!」

 

……確かに一回だけやってたまたまうまくいった人と、100回やって100回ともゴールした人では後者の方が『優秀』といえなくはない。

先生、困ってた。

 

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機関車 周りは線路 枕木ないけど



 

086 鬼打ち豆 ひと粒問題

節分の前日、鬼打ち豆用に大豆を煎った。年中次男は味見と称してひと粒食べた。

節分当日の朝(登園前)、思い出したように「どうしよう」と言ってきた。「いくつ食べていいの?」「きのう一つ食べてしまった」と。

 

整理すると、幼稚園では豆まきの時に年の数(5歳)より一つ多く(6粒)食べると教わってきたのに、昨日一つ食べてしまったので今日6粒食べると一個多くなってしまう! というわけ。

 

「じゃぁ今日食べるのは五つにしておけば」とか

「昨日食べても、今日一度に六つ食べればいいんだよ」とか

「まいたものを六つ食べればいいんだよ」とか言っても

「きのう一つたべてしまった〜〜」とパニックになり、とうとう泣き出してしまった。

見かねた家内が「昨日の分はうんちになってでてくるから大丈夫よ」と言っても効果がなかった。

 

しばらく泣きじゃくった後意気消沈のまま食事を済ませ、バス待ち場所へ。もうすっかり落ち着いた様だったので「どう?豆の事は解決した?」と聞いてみた。下手をすれば『地雷を踏む』ことにもなりかねないこの質問に彼は元気よく。

 「うんちにしてだす!」

 

家内のこの提案を聞いた時には「下手な理屈で無理矢理納得させようとして……マッタク…」と思ったんだけど、結果的には彼の心に一番しっくりくる言葉だったみたい。

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幼児からの成長



085 反省の態度

年長の次男。ちょっと注意をしたことに口ごたえをしてきた。

「なんですか?その言い方は!」

少し真面目な口調できつく言うと

「ごめんなさいでゴザル」

 

こういった場合長男は言葉が出ず黙り込んでいたのに対し、この次男は時としてこういった茶化した感じで応じてくる。

この時の『おフザケ』はホントに反省している現れと感じた。

悪かったとは思ったけど、自分にもプライドがある。

素直に謝るのはしゃくだ。

くらいの気持ちだったのかな。って

『態度』も大事だけど、この時期は『気持ち』を汲み取る事を優先したいと思った。

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頼りにならないお父さん





084 『お絵かき』で『気持ちの整理』

いつもより早めに登園の支度が出来たので、ゆったりと朝の子ども番組を見ていた。虫の童謡が流れた時、バックグランドの虫のアニメをみて「鈴虫の絵をかく」と言い、紙とサインペンを持ち出してきた。

ところが描きはじめたのは戦士の絵。

背の高い戦士のパンチ攻撃を同じくらいの大きさの戦士がバリアーでガードし、下から応戦。

攻撃の様子など動きが感じられて、大人の目から見ればこれで『完成』だった。

ところが年中の彼の中ではまだ未完成。『物語の途中の場面』でしかなかった。戦いは相手の手許をぐぢゃぐぢゃに攻撃するまで続けられた。

ん?

鈴虫はどこへ??って感じだったんだけど……。

 

実は、前日、兄の友人(小5)にからかわれるという屈辱的な経験をしていた。僕は助けを求められながらも、敢えて傍観していた。

側にいるお父さんはあてにならないと諦めてか、

「お兄ちゃんに言い付けてやる!」(その時兄はいなかった)とか

「お母さんはキョーボーなんだぞ〜〜!」(お母さんは強いらしい)と言葉で精一杯の反撃。

この日のお絵描きはその時の『思い』の『消化作業』に思えた。

 

大人の目から見て完成でもそれだと子どもが表現したいことは未表現のままなんだろうね。

そんな時の彼らは創作活動をしてるわけではなく、心の整理をしてるんだろうから。

 

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色は紫をチョイス。
攻撃的な面を持つ赤とそれを抑えようとする青が混ざった色。

 

083 意味があった意味のなさそうな話

年中次男が「ミミズって枯れると死んじゃうんだよね」と言ってきた。虫とりの最中ではあったけどそこにミミズがいたわけではない。夏場、家の前のアスファルトに土から出てひからびているのはよく見かけるが、なんの脈絡も無いこの問いかけに「そうだね、カピカピになると死んじゃうね」と、とりあえずこ立てておいた。

 

そしてその日の夜、幼稚園での出来事を話してくれたんだけど、そのなかに「フトシくん(仮名)がミミズを殺そうとしてたんだよ」という話が出てきた。

「砂場の乾いたすなをかけてたんだよ」とのこと。日中のあの質問はそのことが気になってのことだったのかとガテン

 

脈絡のなさそうな、大人としては「???」と思う話でも、子どもの中ではしっかり流れが出来上がっているものだと感じた出来事。

それとなく意識していきたと思った。

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パトカー



082 小5の園児との接し方

小学5年の長男は学校での未就学児検診の手伝いとして、園児達の誘導にあたったらしい。動物のプラカードをもって先導したっていうことだけど・・・その時の長男の話。

 

プラカードに描かれている動物に名前をつけさせたりして、少し騒がしくしいたところ、同級生の女子に注意されたんだって。

「5年生ががさわいでたらしょうがないでしょう!」

それに答えて「これくらいしてないともっと騒がしくなるんだぞ!!」って言ってやったとのこと。

女子は反論できなかったらしい。

 

もっと騒がしくなるかどうかはさておき、長男は長男の方法で園児達を退屈させないようにしていたんだろうな。

ここに、貼紙だけではなく『ヒト』が付き添ってることの意味がでてくる。人が人と接する意味が生まれる。

与えられた仕事をよく理解できたということで、褒めてつかわした。

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三角帽子を被った芋虫

 

081 散歩で疲れさす

子どもに体力があるのはあいがたいこと何だけど・・・幼稚園から帰ってきて、公園へ連れ出し、ひとしきり遊んでかえってきても、昼寝や夕寝をせずに「ゲームしよう」「ブロックやろう」と遊びまくる。

年中次男の話。

そこで公園の行き帰りの手段をいつもの自転車ではなく、徒歩にしてみた。片道1.5kmくらい。これは効果があった。歩くというのはこちらの想像以上に疲れるみたい。体力の消耗は勿論、道々で出会ういろんなモノに刺激されながら、脳内も活発に活動してるのではないかと思った。

これをするようになってからは散歩のあと夕飯まではしっかり寝てくれるようになった。

 

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子ども運搬車両

 

080 心に寄り添ってばかりはいられない

我が家の長男は小1〜小3くらいまでの夏休みの自由研究は家内の指導(主導?)のもと、そこそこの出来栄のものが仕上がっていた。本人には『やるぞぉ』というような意気込みはみられず、『やらなきゃいけない』『やらされている』という感じ。

4年の夏は『母親の手伝い』がなかったせいか、惨敗!それでも、過去3年間に培われたノウハウは生きているように感じらた。そして5年生。自力でのみ仕上げた自由研究が、なんとか評価された。

6年では前年ほどの評価はなかったものの、独創的で、そこのは家内(母親)の影は感じられなかった。

いきなり突き放すのではなく、ある程度の素地を整えた上で『見守る』。家内の子どもへの接し方と、それに応えた長男の努力だったのかな。

 

大相撲の元小結舞の海のこんな話があった。

彼は中学の相撲部で毎日やめることばかり考えていたそうで、小学生の頃は強かったので始めた相撲が、中学に入ってからは同級生との間に身体的な成長の差が出始め…挫折しそうになったんだって。

放課後、こっそり学校を抜け出そうとすると、顧問の先生が校門で待っていて逃げても追いかけてきた。結局部屋へ連れ戻されて孟稽古。

高校では『騙された』形で入部させられたものの、厳しい稽古のおかげで強くなっていき、楽しさも感じていったということだった。

「今の自分があるのは、中学の先生のおかげ。子どもには、つらくてもそれを受け止め、乗り越えるべく精進するなんてことはできない。どうしても楽な方に逃げてしまうんです。だから何でもかんでも子どもの自主性に任せるという教育方針には、賛成できませんね。子どもがやり遂げるまで、親や教師が強制することも子どもの成長のためには大事だと考えています。」

読売新聞の中でのお話でした。

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ピグミー